教えて!「太陽先生!!」

太陽の観測で新たな暦を作る!渋川春海の挑戦

政治と暦の関係

その昔、暦を作って時を支配することは、権力者の専権事項であったそうです。
日本では、長らく天皇と朝廷が暦を司り、大陸から輸入した暦を採用していました。今ほど科学が発展していない当時、日の良し悪しで儀式を行う日取りを決めていたのですから、さもありなんです。その中でも日蝕や月蝕は不吉とされ、外出が禁止されるほどだったそうです。そのため日蝕や月蝕を正確に予報するのは、極めて重要な政治決定事項なのだそうです。また日蝕や月蝕は不吉なことが起こる予兆とされ、天命思想によって地上の失政に対する天の警告とされたため、事前に日月蝕が予報されるようになります。

暦を作る挑戦の始まり

江戸時代初期、日本で使われていた暦はその800年前に中国から輸入された宣明歴。中国の貞観の時代(唐の時代)に作られた暦です。なぜこんな古い暦が使われてきていたかというと、簡単に言ってしまえばその後に作られた暦は輸入されなかったから。ここを説明すると長くなってしまうので割愛しますが、要するに古い暦を使っていたために日蝕月蝕の予報が外れることが多かったそうです。そのためそれぞれの地域で独自の暦が用いられることもあり、各地バラバラの暦は大きな政治問題に発展する基になることもありました。

そこで、これをなんとかしなきゃいけないと立ち上がったのが、会津松平藩主の保科正之。正之は2代将軍徳川秀忠の子で、3代将軍家光の異母弟、まあ権力者です。この方が江戸幕府の権威を保つ意味もあり、改暦のプロジェクトチームを立ち上げました。そこに声がかかったのが、渋川春海という人物。この人、幕府お抱えの囲碁棋士で、しかも無類の天文好きとして有名だったそうで、保科正之はこの人物を大抜擢しました。

渋川春海(しぶかわはるみ/しぶかわしゅんかい)
寛永16年(1639年)閏11月3日~正徳5年(1715年)10月6日
渋川春海(しぶかわはるみ/しぶかわしゅんかい)
寛永16年(1639年)閏11月3日~正徳5年(1715年)10月6日

渋川春海の挑戦①:受時暦と天経惑問

 渋川は暦について調べに調べ、元の時代に作られた暦「受時歴」に出会います。宣明歴とその後に作られた受時歴のどちらが正しいか、日月蝕の予報を比較します。合計6回の予報のうち、宣明歴は6回中3回が当たり、受時歴は6回中5回命中させますが、全てを正しく予想できなかったことから、受時歴の採用は見送られることになります。プロジェクトがスタートして8年、春海の改暦事業は白紙に戻されてしまいます。

 しかしここで諦めないのが渋川の真骨頂。当時の棋士というのは国際人で、大名や旗本、公家などとも交流があり、諸国を自由に行き来できる立場だったそうです。この人脈を活かし、本来手にすることのできない舶来の書である「天経惑問(イエズス会宣教師などが伝えた内容を中国でまとめたもの)」を手に入れます。

天経惑問
天経惑問
(出典:https://www.ohya-shobo.com/catalog_list_scope.php?print_id=12256

渋川春海の挑戦②太陽の観測

 また春海は、渾天儀や高さ8尺の圭表(太陽が作る影の長さを正確に測る装置)を自ら作り、観測を続けました

渾天儀
渾天儀
出典:https://www.sendai-c.ed.jp/~bunkazai/shiteidb/c02120.html
圭表
圭表
出典:https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/B7BDC9BDB5B7.html

この圭表で毎日決まった時刻に影の長さを計測することで、1年の太陽の周期について正確に知ることができ、受時歴の記述を検証しようとしました。更に天経惑問で西洋の天文学に比較し、受時歴を検証、ある1文に出会います。それは

「盈縮之界非在二至之。乃在二至之後六度。」

です。意味は「盈縮(えいしゅく)とは太陽の速度が速くなったり遅くなったりすること、その境界は冬至・夏至ではなく、その後6度のところにある。」ということ。すなわち、地球の公転は楕円軌道を描いており、地球の公転スピードは太陽から近いところでは早くなり、太陽から遠いところでは遅くなる、ということ。受時歴が作られた当時、公転速度が最も早くなるのが冬至、最も遅くなるのが夏至でした。ところが400年経つ間にこの点が6度ずれてしまっていた、これが受時歴の日蝕月蝕の予報が外れる原因の一つだったことに辿り着きます。地球は木星などの大きな惑星の引力により公転軌道がずれることがあるのだそうです。このずれが6度の差を生んだことになります。

渋川春海の挑戦③世界地図

 また春海は、坤輿万国全図という当時最先端の世界地図まで入手します。この地図で
受時歴が作られた北京(元の首都)と京都の経度の差を知ることになり、中国と日本の日月蝕の予報がずれる理由を理解します。

坤輿万国全図
坤輿万国全図
出典:
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Kunyu_Wanguo_Quantu_%28%E5%9D%A4%E8%BC%BF%E8%90%AC%E5%9C%8B%E5%85%A8%E5%9C%96%29.jpg

そして次のような結論に辿り着きます。
「古と今では天体は同じではない。地の四方でも天地はまた同じではない。時と場所に従って観測結果を考えるべきだ」
これは天体の真理に近づいた、ともいえるでしょう。

渋川春海による暦:貞享暦

そして日本に使うのにふさわしい新しい暦作りに全身全霊で挑み、ついに大和歴を完成させ、天和3年(1683年)1月6日に幕府に上表します。これを5代将軍徳川綱吉が承認、改暦計画は幕府から朝廷に持ち込まれ、朝廷からの承認を待ちます。この時春海45歳。

その後紆余曲折を経て(詳細は割愛します)、翌天和4年(1684年)10月29日に、大和歴から名前を変えた貞享暦(霊元天皇が定めた年号)とする改暦の宣旨が霊元天皇より下されました。

観測機器も今ほど精緻ではなく、コンピュータもない時代に地道な観測と文献調査を経て日本に合った暦を作り上げた渋川春海。春海はこの後幕府が創設した天文方のトップに就任、77歳で亡くなるまで暦の研究と観測に没頭したそうです。

注:このコラムは2023年12月27日放送のNHK BS「英雄たちの選択 天の理(ことわり)を見抜け! 渋川春海 改暦への挑戦」をまとめたものです。

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